2022年度
第11回総会&第108回例会・・・・・2022年3月13日—「富大高岡キャンパスと小矢部川」
昔は堤防のことを土手と言っていたが、土手って標準語?
一番早く春を見つけるのはたいてい土手だった。木々の芽吹きより早く、パンジーが咲くより先にオオイヌノフグリ小さなブルーの花がが咲き、蕗の薹が芽を出し、よく目を凝らさないとわからない土筆が伸びていたりする。
今日はそんな土手を歩きましたが、皆さんは春を見つけることができましたか?
今は梅の花が春を告げていますが、もう一か月もすれば桜の季節ですね。
そのあとは木々の緑も芽吹いて、山へ入ると草いきれが感じられるようになります。
最近なんとなく時間の過ぎるのが早いように感じるのはどうしてでしょう。
第109回例会‥…2022年4月9日―お花見ウオーク「舟橋京坪川の桜と常願寺川公園の桜」
西行の代表的な和歌に、「願わくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ」というのがあります。
如月(きさらぎ)の満月(もちづき)は、陰暦の2月15日ですが、西行が亡くなったのは文治6年2月16日といいますから、なんと願いが叶ったわけです。
ちなみに旧暦の2月15日は今年で言うと3月23日になるらしい。桜が咲いていたかもしれませんね。
大伴家持も桜の歌は何首か詠んでいます。
伏木に国主として赴任していた747年、大伴家持は前年暮れの風邪をこじらせたのか肺炎らしき病にかかり2カ月以上も床に臥すという長患いになってしまいました。
一時は死をも覚悟したようですが何とか持ち直し、回復に向かった2月の終わり、
現在の4月の初めのころでしょうか、歌友の大伴池主に見舞いの礼状と歌を送ります。
「 春の花 今は盛りに にほふらむ 折りてかざさむ 手力(たぢから)もがも 」
( 春の花 今や盛りにと咲いていることでしょう。
手折って挿頭(かざし)にできる手力があったらよいのに )
当時はソメイヨシノなんかありませんから、当然山桜です。
第110回例会・・・・・2022年5月15日―「氷見長坂の棚田と大くす」
灌漑の発達していなかった昔は谷あいの山水が自然に流れてくるところが農地に適していたらしい。
その谷あいの中でも勾配の急なところが棚田と呼ばれた?
近世以降、灌漑が発達して平地は隈なくコンクリートの水路が張り巡らされ、谷あいの集落は人が住まなくなり、今や棚田は観光資源と化した。
(現在棚田の総面積は約22万haで、これは北海道を除き日本全域に渡っていて、水田の約8%を占めている。)
日本棚田百選で富山・福井は各2か所、石川は3か所。圧倒的に多いのは熊本・宮崎・長野。(3県で38か所)
「水見半作」――昔から稲作の水管理の大切さを表す言葉。
灌漑が発達する過程でいろんな水車も活躍した。
室町時代、15世紀に日本へ来た朝鮮通信使は日本の農村に水揚水車がある事に驚き、製造法を調査し本国に報告したという。
第111回例会・・・・・2022年6月10日—東山円筒分水槽
第112回例会・・・・・2022年7月17日ー七尾城跡
特別例会・・・・・バスウオーク「霧ヶ峰高原と美ヶ原高原」―コロナで中止
第113回例会・・・・・2022年9月18日—卯辰山公園ー金沢城址公園
東金沢駅から旧北国街道を経て卯辰山公園線を歩く。
卯辰山金沢工芸工房でトイレ休憩をし、標高100メートルの見晴らし台へ。
変な風車のある芝生広場で金沢の市街を眺めながら昼食を摂る。
下見のときに見落としてしまった三社参道から帰厚坂を下って六角堂の麓を天神橋へ。
浅野川を渡って金沢城公園へ入る。
石川門をくぐり、橋爪門~玉泉院庭園~鼠多門・鼠多門橋を渡り雄山神社へ。
トイレ休憩のあと高岡町を経て金沢駅で電車に乗り東金沢駅に戻る。
台風の影響か真夏の暑さの中ご苦労様でした。
夏から秋に変わる節目の日かも。
第114回例会・・・・・2022年10月16日—旧北陸道を歩く①「市振~入善」
おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った紀行文である[1]。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って[1]、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。西行500回忌の記念すべき年に、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることが、最大の目的の旅であった。
旧暦の7月12日 親知らずの難所を越えて市振の宿に泊まる。
「一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月」
二人連れの遊女からお伊勢参りに行くが同行させてもらえないかと聞かれ、我々は寄り道しながらの旅故無理だと断った。当時の遊女は立派な職業だったという。
第115回例会・・・・・2022年11月6日ー旧北陸道を歩く②「入善~黒部」
黒部(くろべ)四十八ヶ瀬(しじゅうはちがせ)とかや、数(かず)しらぬ川をわたりて、那古(なご)といふ浦(うら)に出(い)づ。
(黒部四十八が瀬というのだろうか、数え切れないほどの川を渡って、那古という浦に出た。)
黒部川は、3000m級の北アルプスから秘境黒部峡谷を一気に駆け下る世界でも有数の急流河川。この急流によってつくられたのが、黒部川扇状地です。扇頂から扇端までの距離は13.5kmで典型的な扇状地としては日本一の大きさです
四十八が瀬とはたくさんの形容詞で高山の「宇津江四十八滝」など滝によく使われる。
黒部川も昔は堤防もなく豪雨の度に流れを変えたと思われます。それが幾筋もの川となって日本海に注いていたのでしょう。
第116回例会・・・・・2022年11月25日ー木場潟一周と那谷寺の紅葉見学(粟津温泉総湯)
お寺はいつから観賞用になったんでしょう。
江戸時代の庶民も今みたいにお寺の紅葉を見物に出かけたんでしょうか。
お寺さんの目的外使用ですね。
江戸時代は大きな川に木の橋を架けると渡りちんを取ったりしたようですが、お寺のモミジを見るのにお金を払ったという話はつとに聞いたことがありません。
団体料金というのも不思議な発想です。高齢者を安くするというのはどういう意図なんでしょう。
ま、世の中不思議なことだらけですけど、何らかの必要性があったのでしょう。
いつぞや京都の三千院に行ったとき、駐車場料金1000円というから見ないで帰ってきてしまった。べつに三千院が見たくて行ったわけでもないが、今思うと残念なことをした。変なことを考えないで素直に利用すればよかったものを。
それにしても、那谷寺はすごかった。高岡の国宝になる勝興寺よりもよほど。
第117回例会・・・・・2023年1月3日―初詣ウオーク「姉倉比売神社と豊栄稲荷神社」
姉倉姫は船峅山(富山市舟倉の一帯)を本居とした女神で、能登石動山の伊須流伎彦と夫婦の間柄であったが、伊須流伎彦が杣木山(石川県中能登町)の能登姫と通じたため、姉倉姫は激怒し、この三角関係のもつれから、越中・能登は戦乱となった。
能登姫は海水を巻きおこして潮水を吹きかけ、姉倉姫はありったけの小石を投げつけたため、船峅の上野には小石が一つもなくなったという。布倉山(尖山)の布倉姫も姉倉姫に加勢して戦った。
この騒動を聞いて、出雲から大国主ノ神がやってきて、戦乱を鎮め、関係者を処罰した。
伊須流伎彦と能登姫は海浜にさらして重く罰され、姉倉姫は呉羽の小竹野に謹慎させられ、機織の仕事で罪を償わされた。
姉倉姫が機を織っていると、窓から蝶が舞い込んで、姫の仕事の手助けをした。
数年後、姉倉姫が許されて故郷の船峅に帰るとき、無数の蝶が姫を慕って舞いながらついていったと伝わる。